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12色相環 
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[連載-540]
2016/05/23
相互に作用する音楽
佐野芳彦


「情報をトリガー(引金)にして音楽を創る」という言葉には、コンピュータを使い情報に基づいて、音楽を自動的に生成する≠ニいう意味が込められている。情報に基づいて音楽を創るには様々な方法が考えられるが、そもそもなぜ、作曲家はそんな事をしようとするのか。
 自らについて書けば、音楽の制作にコンピュータを用いるようになって以来、たくさんの偶然に出会うようになったことが背景にある。その偶然とは、音楽データの入力ミスであり、再生するオーディオトラック(音楽パート)の選択ミスだったりする。それらは、音楽家が譜面を見ながら演奏する限り、決して起こらないハプニングだ。ところが、そのハプニングの中に、想像だにしない豊穣な音楽が立ち現れることがある。音楽家は知らずしらずのうちに、「こう来れば、次はこうなる」という既成概念に囚われて、自縄自縛に陥っている・・・・・・練習すればするほど、経験を積めばつむほど。
 音楽の過程に紛れこんだ偶然には、時に、音楽家と聴衆の感性をリセットする作用がある。加えて、その偶然を引き起こすトリガーに、音楽とは関係がない特定の情報≠用いると、抽象芸術である音楽に、情報性(具体性)を付加することができる。

 コンピュータこそ使わないが、たとえばジョン・ケージ(John Milton Cage Jr.)は、1950年代のはじめに「易の音楽」を作曲している。それは、創作の過程に偶然性を取り入れたもので、チャンス・オペレーション≠ニ呼ばれる。彼はコインを3枚投げ、その結果に基づいて次の音を決めて行った。おそらくケージの主題は、禅に通じる無為≠ナあっただろう。しかし別な見方をすれば、何度も繰り返したコイン投げ(易)の結果は、特定の情報≠ナある。「易の音楽」の作曲法を知れば、完成した音楽からコイン投げの結果が特定できるはずだ。
 作曲家、指揮者であり、IRCAM(Institut de Recherche et Coordination Acoustique/Musique:フランス国立音響音楽研究所)の創立者でもあるピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)に、「プリ・スロン・プリ」という作品がある。もともと綴じられていないマラルメ(Stephane Mallarme)の詩集に付曲したもので、読者が詩集を読む時とおなじように、音楽のフレーズはどの順番で演奏されても良い。その判断は、舞台の上の歌い手に委ねられる。音楽に偶然を導入する方法がケージとは異なるが、歌い手が決めた演奏の順序は、やはり特定の情報≠ナある。
 アルファベットのそれぞれの文字にフレーズを当てはめておき、特定の文字列に従って音楽を創ったのはモーツァルトだった。それから200年、ジョン・ケージやピエール・ブーレーズは、彼らが意識していたかどうかとは別に、再び情報をトリガーとした音楽を試したことになる。

 先輩たちのこの試みに、コンピュータを導入することができる。
 たとえばモーツァルトのアイデアを使えば、文字や数字に対応させた短いフレーズを、音楽ファイルにしておくことで、IDやパスワードの音楽を自動的に合成することができる。それは、音楽による情報の暗号化=Aあるいは聴こえる化≠ニ呼べるかも知れない。
 仮に、コイン投げの結果≠ニいう情報に換えて、特定のセンサーから送られて来るデータを用いるとしよう。ケージが偶然に委ねた方法をアプリケーションにすれば、次に選ぶ音をセンサーが決めることもできる。その結果をシンセサイザーに入力すれば、センシングデータに応じて、音楽をリアルタイムに変化させることが可能だ。
 「プリ・スロン・プリ」の個々のフレーズを、音楽ファイルとしてスタンバイさせれば、音楽の進み方をオーディエンスが決められるようになる。ブーレーズが試みたのは、部分があって全体像が提示されない音楽、あるいは、時間の流れが固定されていない音楽だった。「木を見て森を見ず」という喩えがあるが、「木を見て森を想像する」このような音楽の在り方は、オーディエンスにコンポーザー(Composer /構成者・作曲家)としての疑似体験をもたらすかも知れない。それはインタラクティヴ(相互作用的)な体験する音楽≠ノなる。

 音楽と音の羅列≠厳格に区別するのは難しい。それは、聴く人の感性にも因る。聴衆は意外に保守的なもので、いわゆる前衛音楽に対しては好悪を超えて拒絶する人も多い。ところが、自らが音楽の過程に関わっている場合、人は途端に寛容になる。
 たとえばサウンド・インスタレーション≠ヘ、作者が設置した音響空間を、鑑賞者が体験する仕組みだ。多くの場合、鑑賞者の行為や行動が音に影響を与えるようになっている。つまり、音の生出過程に鑑賞者が関わることになる。
 太い竹筒がシーソーのように設置された鹿威し≠想像していただきたい。筒の一方が斜めに切ってあり、そこに沢から引いた水が注がれている。フシ(節)に溜まった水が一定の量を超えると、シーソーが傾いて水がこぼれる。それが再び元の位置に戻るとき、竹筒の反対側の底が石を打って、カーンと鳴る。
 京都に下宿していたころ、詩仙堂の鹿威しをいく度も聴きに行った。竹筒に注ぐ水の量は晴雨によって異なるだろうが、ある時間帯に限れば、ほぼ一定だろう。石を打つ間隔も、ほとんど同じはずだ。それがココロの在り方によって、一様には聴こえない。アインシュタインを持ち出すまでもなく、鹿威しは時間が伸び縮みすることを教えてくれる。
 さて。詩仙堂の鹿威しに鑑賞者は関わっていないが、それを何台か設置し、沢から注ぐ水の量を鑑賞者が自由に調節できるようにすると、そこに、インタラクティヴな音響空間が出現する。この仕組みが発する音の連続を、狭義の音楽≠ニ呼ぶのは難しい。けれど、ただの生活雑音とも違う。仮に、鹿威しの音に明確なピッチ(音高)が感じられたとしても、その生出過程に関わった人にとって、それは単なる音の羅列には聴こえないだろう。
 このような音の仕組みを、さらに音楽的≠ノする方法がある。

 まず、ピアノの鍵盤から全ての白鍵を取り除く。そして、サスティーン(余韻)ペダルを踏みっ放しの状態にする。つまり、教会のコーラスのように、長い余韻が残るようにする。音が鳴ったとき、それを山彦≠フように繰り返すディレイ(delay)音を、音響効果として加えることができれば、さらに良い。この黒鍵だけのピアノを、鑑賞者が自由に弾く。目隠しをしても良いし、足で弾いてもいい。鍵盤の左右を逆にするのもいい。
 最初の音を聴いたとき、鑑賞者は、自分が弾いた音がどんな風に減衰して(小さくなって)行くかを認識する。次の音を弾いたとき、それが前の音とどのように重なり合うかを知る。音の連なりと重なり具合を色々と試すうちに、自分なりに面白い(あるいは美しい)音楽を創る方法を会得し、喜々として鳴らし続けるだろう。
 1オクターヴの音程を均等に12で割ったピアノの鍵盤は、沖縄民謡からシェーンベルク(Arnold Schonberg)まで、微分音(半音より狭い音程)を使わない限り、殆んどあらゆるスタイルの音楽に対応できるように作られている。言い換えれば、全ての可能性が常に目の前に提示された状態にある。一方で、それが演奏を難しくする要因にもなっている。
 ところが、生活の中に継承されてきた世界中の民族音楽は、ほとんど特定の音しか使わない。最初から使う音が限られていれば、演奏も作曲もはるかに容易になる。
 たとえばピアノの黒鍵は、C#・D#・F#・G#・A#の5音だが、これを階名にすると、ソ・ラ・ド・レ・ミ。最も一般的なペンタトニック・スケール(5音音階)だ。多くの日本民謡も、この5つの音でできている。スッコットランドやアンデスの音楽に、日本人が懐かしさを感じるのも、この音階のせいだ。
 西洋の古典音楽には、和音の配置や進行、パート(声部)の導き方などに関する音楽理論があって、機能和声と呼ばれている。それに対して、ほとんどの民族音楽には、そもそも和声という概念がない。和音すら持たないことも多い。もともと概念がないのだから、タイミング(リズム)にさえ気をつければ、どんな風に音を組み合わせてもいい。
 使う音を5つ程度に限定した時点で、音楽の体系も大よその雰囲気も決まる。別な言い方をすれば、自由を手にする代わりに可能性を捨てたことになるが、音楽に参加する人にとって、それが福音となる場合もある。ちなみに、どのように弾いても沖縄風に聴こえるピアノ≠作るには、ド・ミ・ファ・ソ・シ(琉球音階)以外の音を弾けなくすればいい。
 このように、鍵盤の一部を計画的に取り除くと、何をどう弾いてもそれなり≠フ響きがする。
 余談だが、現代の作曲が難しいのは、可能性を持つ全ての音と常に対峙するからだ。それは、自分だけの音楽体系(音楽語法 / ルール)を構築する、という側面を持っている。

 黒鍵だけのキーボードにディレイ(山彦)を掛けて、スタッフのYに弾いてもらった。彼女は子供のころピアノのレッスンを受けていたが、特段、音楽の才がある訳ではない。
 ♪ 宵闇の大阪は 二人づれ恋の街
 番組の打ち上げで無理やり歌わされた大阪ラプソディー≠ェ、意外に正確な音程で少し見直したが、ピアノを習った経験がある多くの女性に共通する正確だけど面白くない歌≠フ域を出ない。まして自分で音楽を創るなど、考えたこともないはずだ。
 そのYがキーボードを弾き始めると、最初は少し弾き過ぎてしまう帰来があったが、それなりに要領を得て、やがて連続する2和音(2音からなる和音)を弾いた。それが偶然、ソ/ド・ラ/レ・レ/ソ・ミ/ラという、4度重ねの音程が連続する響きだった。すると途端に、古い「西遊記」のBGMにありそうな、中国音楽のパロディーに聴こえた。たまたまこれを録音した前日、ケ小平氏が他界されたため、Yの演奏は「さらばケ小平」というタイトルになった。
 録音を終えた後、ボクが目隠しをして弾いてみたら、我ながら圧倒的に音楽的な作品≠ノなった。選んだ音は偶然の要素が強く、目隠ししたボクとYでほとんど違いはない。差は、タイミングと音の強弱にある。発音のタイミングが音楽の出来を左右するのは当然だが、音の強弱もタイム感覚に影響を与える。これはボクの感性だが、弱い音よりも強い音を、長く感じる傾向がある。音楽は時間の芸術≠ネのだ。
 この仕組みをコンピュータ化し、CO2の測定値に呼応して変化するサウンド・インスタレーションを創るには、どうすれば良いか。
 CO2の値はプラスとマイナスの両方向に、それぞれ大きく動く場合と小さく動く場合がある。それに対応するには、次に来る可能性がある全ての値に対して、その時に発せられるべき音を常に用意しておく必要がある。
 ウォシュレットに腰かけて中学の教科書を眺めていたら、12色相環≠ェ目に入った。

 美術の授業で習った12色相環≠ヘ、たとえば黄色を出発点にして時計回りに、黄緑・緑・青緑・緑青・青・青紫・紫・赤紫・赤・赤橙・黄橙と変化し、再び黄色に戻って360度の環になる。隣とは30度の関係だ。黄色から180度の位置、つまり真向いにあるのは青紫。同様に緑の真向いは赤紫、青なら黄橙、赤なら青緑。これらは、色相が最も異なる間柄であり、補色と呼ばれる。つまり、互いにいちばん馴染みにくく、目立つ関係にある。セブンイレブンの看板がよく目に付くのは、赤と橙で描かれた「7」の文字に、緑が組み合わされているからだ。執刀医が着用する手術着も、赤い血の付着が分かりやすいように、緑や青であることが多い。
 色の特定には、RGBやCMYKといった数値が使われる。色をデータと考えれば、この12色相環≠、一連の情報変化と見なすことができる。
 仮に、時計回りをプラス、反時計回りをマイナスの変化とすると、黄色に対してプラス1は黄緑、マイナス1は黄橙。この二色は黄色に似ており、当然、情報の変化は小さい。黄色と90度の関係にある青緑と赤は、中程度の変化だ。そして真向いに位置する青紫は、黄色から見たとき最も大きな情報変化になる。
 12色相環≠フ面白いところは、情報とその変化の関係が、黄色以外の11色それぞれについて、全く同様に成り立つことだ。
 この原理を、特定の鍵盤を取り除いたピアノに応用する。

 たとえば黄色には、「ド・レ・ミ・ソ・ラ」という日本の5音音階を当てはめてみる。補色の青紫には、アラブの音楽で使われる「ド・レ・ミ♭・ファ#・ソ・ラ♭・シ」という、オリエンタル・スケール(音階)を充てる。補色にアラブの音楽を充てたのは、ボクには、それがいちばん肉体化しづらい音楽に感じられるからだ。
 90度の位置にある青緑と赤には、「ド・ミ・ファ・ソ・シ」の琉球音階や、ロックで使われる「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭」という、ブルーノート・ペンタトニック・スケールを充ててもいい。
 このように、12色相環のそれぞれの色に、異なる音階を当てはめる。すると情報変化の大きさに呼応して、親和度の高い音階から低い音階へと、奏でられる音楽の体系が変わり続ける。それよりも小さな変化の時は、同じ色相(音楽体系)に留まりながら、数値に応じて、近い音や遠い音を選べばいい。
 トリガーの頻度には、発音のタイミングをそのまま対応させるのが自然だ。そのとき、発音の頻度に応じて、ディレイ・タイム(山彦の反射時間)が変わるようにすれば、さらに音楽的になる。
 少し難しいが、このシステムに、単音ではなくフレーズを対応させることも可能だ。(佐野芳彦,宮治眞,他.CO2をトリガーとしたインタラクティブ・サウンドアートの研究.環境共生 1999;3:68-75.)

 この音の環≠フコンセプトと、「さらばケ小平」を講演会で披露したところ、話し終わった途端に駆け寄って来た研究者がいた。髪の毛こそ黒くて短いが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドク≠ンたいな雰囲気だ。指紋だらけの、度の強い丸メガネを掛けている。一直線の視線は、挨拶の余裕も与えず、いきなり核心に入った。
「あのねぇ、科学者が音楽に取り組んでも、上手く行かんのだ」
「・・・・・・?」
「これは音楽家にしか出来ない仕事。ずっと続けて欲しい」
 口角泡を飛ばしながら話しかけて来たのは、産総研(産業技術総合研究所)のW博士だった。
 アートとどう向き合うか。これからのサイエンスの課題だ。科学であれば、どんなに難しい理論でも必ず理解することができる。ところが芸術は、苦労もなく一定の領域に至る人がいる一方で、どんなに努力しても、それが叶わない人もいる。科学と芸術が協働するには、科学者が芸術に取り組むより、アーティストが科学を学んだ方が早い。
 博士のこの言葉が、今も残っている。

 音楽には、決して逃れられない重力のようなものが働いている。それに比べると、視覚芸術の自由さと言ったらない。音楽に束縛が多いと感じるのは、音楽家のやっかみだろうか。
 たとえば絵画と音楽を比べると、より科学に近いのは音楽だろう。視覚情報と音では、そもそもエネルギーに差がある。絵画は、その媒体である光を増幅したりしないが、奏でられる音は、常に空気の振動をブースト(増幅)し続ける。感動の有無や大きさを除けば、一枚の油絵と交響曲の一曲では、身体に直接影響するエネルギーの量が違う。光は、万物に平等だ。
 音楽に束縛が多いもう一つの理由は、日常の中にある。
「手術台の上で出会ったミシンとこうもり傘のように美しい」とは、アンドレ・ブルトン(Andr? Breton)がシュルレアリスムを称した言葉だが、それは、視覚が簡単に混沌(カオス)を飛び越えることを示唆している。見れば分かる≠ニいう通り、ボクたちはあらゆる視覚的な混沌を許容することができる。
 それに対して、聴覚が日常的に経験するのは生活雑音の混沌であり、楽音(ピッチを持つ音)のそれではない。そのせいで、混沌とする楽音に対しては、多くの人が拒否反応を示す。

 音楽が生まれたころ、使う音の種類は限られていたはずだ。楽音のピッチ(音高)も、かなりいい加減だっただろう。それがやがて、12個の半音に集約されるようになった。それを切っ掛けとして17世紀後半から、音楽のデジタル化≠ェ一気に加速することになる。



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